絹雨物語

今は六月。この頃はずっと雨の日が続いている。今年は例年よりも梅雨入りが早かった。

「また今日も雨かぁ。」

紗奈は自分の部屋の窓から外を眺めて呟く。
連日の雨にうんざりしながら制服に着替えて、階下のリビングへ向かった。
下に降りると、母が朝食の支度をしていた。

「あらおはよう紗奈。最近早いのね。」
「うん、早朝補習が始まったから。」

そっけなく答えてから、紗奈はバスの時刻表に目を通した。
今日は金曜日。学校まではここからだいぶあるが、バスなら十五分程度で行ける。たぶん七時発のバスに乗れば間に合うだろう。

「朝ご飯、できたわよ。」
「あ、うん、ありがとう。」

紗奈は時刻表を片づけて食卓に着いた。今日の朝食も和風だ。一汁一菜。今時にしては質素というか、つつましいというのか…。
紗奈と母以外、この家には誰もいない。紗奈はもともと一人娘だったし、父親は彼女が小学校六年の時通り魔によって殺されていた。
そのため、事件から四年経って高校二年になった今でも紗奈はほとんど人と関わりを持ちたがらないところがあった。

「ごちそうさま。」
「はい、ごちそうさま。食器は置いといていいわよ、私が洗うから。紗奈はもう出かける支度しなさい。」
「はーい。」

紗奈は鞄を開けて、持ち物の確認をした。とりあえず忘れ物はなさそうである。

「じゃ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい!」

バス停にはすでにたくさんの人たちが並んで待っていた。色とりどりの傘が花のように見える。
紗奈はバス停にある時計を見やった。
バスは後三分で来るはずだった。が、七時を過ぎてもバスは一向に来ない。先に待っていた人たちも口々に文句を言っている。

(やだ…。これじゃ早朝補習遅刻するかも。)

七時十分になって、ようやく一台のバスが来た。紗奈は降車口の扉が開くのを見て、反射的に飛び乗った。
席に座って一息ついてから、紗奈はバスには自分以外誰も乗客がいないのに気が付いた。
あのバス停で待っていた他の人も、誰一人乗っていない。
紗奈は急に不安になったが、よくよく外を見るといつものバスと同じ道を走っていたので、偶然誰も乗っていないだけだと思うことにした。
バスに揺られているうちに紗奈はいつの間にか眠ってしまった。

ふと、紗奈が目を覚ますと、バスはすでにバス停で止まっていた。きっと終点まで乗り過ごしてしまったに違いない。

「あの、すみません。私、神楽高校前まで乗るつもりでうっかり乗り過ごしちゃったみたいなんですけど…。」
「?」

仕方ないので運転手に話し掛けてみた紗奈だったが、彼は不思議そうに首をかしげて、降車口を開けた。

「え…?」
「おそらくお客様、乗り違えたのではないでしょうか?一度降りて確かめてみてください。」

仕方なく紗奈がバスを降りると、バスはそのまま彼方へ走り去ってしまった。そして、振り返った紗奈は愕然とした。
そこは見知らぬ街だった。
一見すると普通の街並みなのに、外には人っ子一人いないのである。どの家もぴったりと戸を閉めて、出てくる気配がない。
絹のように降る雨がよりこの町の淋しげな雰囲気を引き立てていた。

(何なの?こんな人気がない街…見たことがない。それに早朝補習もこれじゃ遅刻してしまう…!)

しばらく街の奥の方へと歩いていくが、誰にもすれ違うことなく広場にたどり着いた。
閑散としたそこは「死んでいる広場」という表現が一番似合うんじゃないかと思うほど寂れていた。
紗奈はすっかり困惑してしまった。

「いったいこれは何…??」
「ここはもうだいぶ前からこうなんだよ。」

不意に後ろから声がした。振り返ると小学生くらいの少年が一人。紗奈は突然声をかけられて一瞬どきっとした。

「……ずっと前からって?」
「うん、前にこの町でいろんなこわい事件がいっぱい起きてね、この町には人がすっかりいなくなってしまったんだ。
それからしばらくしてこわいことはなくなっていったんだけど…誰も一緒におしゃべりしたり楽しく過ごさなくなっちゃったんだ。
だからすごく淋しくてね、ぼくね、この街をもとに戻したいって思うんだ。」

紗奈は少年が一生懸命に話すのを黙って聴いていた。

「お姉ちゃん、手伝ってくれる?」
「え?」

急にそんなこと言われても即答できるはずがない。それにこんな見知らぬ街で見知らぬ子供と関わりを持つのは避けたかった。
赤の他人との接触で何が起こるか、どんな事件の入り口か判ったものではない。過去の忌まわしい記憶が脳裏をよぎっていった。

「お姉ちゃん…手伝ってくれる?」

呼び掛けられて我に戻る。

(こんなに小さい子供だし、悪意もなさそうだし、もとの街に戻るバス停を探しつつ一緒にいてあげたっていいか…。)
「…うん。」

不安半分という感じではあったが、紗奈は頷いてみせた。
すると、少年もにっこりと笑って

「ぼくは涼香!お姉ちゃんは?」
「…紗奈っていうの。」
「さなっていうんだ?よろしくね。」
「…うん。」

紗奈は涼香に歩調を合わせてゆっくり歩きながら、彼の話を聴いていた。

「この町の人はとっても優しかったんだ。でももう今じゃあ全然家から出てきてくれないんだ。友達とも遊ばせてくれないし、
ぼくはお母さんもお父さんもいなかったからいつも孤児院だけで過ごさなきゃいけなくって他はずっと一人で、
つまんなかったんだ。だから今日お姉ちゃんに会えたのはすごくうれしかった!
それからね、お姉ちゃんに手伝ってほしいこととかもお話ししなきゃ。
ぼくね、この町をもとに戻すためにみんなに「もっといっぱいいっぱいお話ししようよ!」ってお話をしたいんだ。
でもぼくだけじゃ誰も相手にしてくれないんだよ。ぼくがまだ小さいから…。」
「それで、私も…ってこと?」
「そう。お姉ちゃんなら大きいからみんなも少しは聴いてくれるよ!だから手伝ってほしいんだ。」

これが紗奈にとって大きな転換期になろうとはその時の紗奈には知るよしもない。

紗奈が涼香の心配りで、一緒に「聖母孤児院」で暮らすようになって数週間が過ぎた。
涼香が粘って交渉してくれたおかげで、孤児院の役員もシスターも、紗奈を迎え入れてくれることになったのだった。

紗奈が来てからずっとこの街の天気はぐずついている。今日も絹雨が降っていた。
母や学校のこともとても心配にはなったが、一向に帰りのバスらしいものは見つけられずに、結局この街に留まらざるを得なかった。
ここに来た時に降りたはずのバス停さえ、見つからないのだからどうしようもない。
それから紗奈はこの街で過ごしていて気づいたことがいくつかあった。
まず、人と話をするうちに自分はだいぶ自然に人と話せるようになってきたこと。
町の人と話すうちに、なんだか少しずつ人に対する嫌悪感というものが薄れてきた気がするのだった。
次に、この街の人々が自分によく似ていること。
見た目や性格というわけではなく、過去のことばかりにとらわれて、全然人を信じられないでいることがよく似ていると思ったのだ。
話してみるととても気さくだったり、ユニークだったり一人一人がとても個性的だったし、
涼香の言ったとおり親切で、紗奈がここに来たいきさつをきくと、誰もみんながアドバイスをくれたり相談にのろうとしてくれるのだ。
だが、人を信じるとか、そういう話になるとみんな否定的になるのだった。紗奈には普通に話をしてくれるが、お互いの町の人とは全くかかわり合いを持とうとしない。
そういえば、ある中年のおばさんとはこんな会話をした。

『紗奈ちゃんには来たばっかりでよく事情がわからないのかも知れないけど、
私たちだって本当はお互いに昔みたいになりたいと思ってると思うのよね。
みんなおしゃべり好きのお人好しだからさ。
でも、どうしてもあの事件の記憶を乗り越えられないんだ。
誰がいつ裏切って事件を起こすか、とかちょっとでも優しくしてくれる奴がいるともしや自分のお金や家をねらってるんじゃないかとか、
そんなことを無意識のうちにかんがえちまうのさ。』
『でもその記憶を乗り越えられなくてはだめなんじゃないですか?できないなんて、そんなこと言ってたらいつまでも変われないですよ。
お互いにもっと話をするように心掛けたりしましょうよ。きっとそれが一番の近道です。』
『そうも思うんだけどねぇ。…紗奈ちゃんがあたいらと同じ境遇だったら、できるのかい?
苦々しい記憶を忘れて、昔のように戻れる自信があるのかい?』

紗奈は答えられなかった。口ではあんなことを言いながらも自分にだって乗り越えられていないのである。
父を殺された記憶は今でさえ鮮やかに蘇って、紗奈は人に対して冷淡な態度しかとってこなかった。
そんな自分が、この町の人には「苦い記憶を乗り越えなくては」なんて言ってきたのだと思うと自分が惨めで恥ずかしくなった。自然と頬に涙が伝う。

「あれぇ、紗奈ちゃんじゃないのよ。どうしたのよ?こんなベンチで泣いてるなんて、何かあったんかい?」

話し掛けてきたのは、今ちょうど思い出していた会話を交わしたおばさんだった。
紗奈は彼女の心配そうな表情を見て、もっと泣けてきた。

「どうしたのかよくわからんけど、ちょっと側にいてやるからちっと落ち着きな。な?」

紗奈は彼女の傍らでただただ泣くことしかできなかった。

長いこと時間が経って、ようやく紗奈は泣くのをやめて泣いていた理由を話した。
父を殺されて悔しかったこと、それから自分は人に対して不信感を持っていたこと。その他、心にわいてきた言葉を全部ありのままに話した。
それを隣にいたおばさんはじっと聴いていたが、紗奈が話し終わると、ぽつりと呟いた。

「そんな悲しいことが、紗奈ちゃんにもあったんだねぇ…。全然知らなくて悪かったよぉ。
あたいもこの前紗奈ちゃんと話した時なんか、自分の気持ちの整理がつかなくなってきてさ、
半ば挑戦するように「あんたにはつらい記憶を乗り越えられるのか」なんて言っちゃって…。」

紗奈はうつむいたままで答える。

「いいんです。確かに私にも嫌な記憶は乗り越えられないんですから、おばさんが言ったことは事実なんですから。」

そういうと紗奈はまた泣き出しそうになった。でもぐっとこらえる。

「…いいや。私は十分に紗奈ちゃんは記憶を乗り越えたと思うよ。」

しばしの沈黙の後で、隣からおばさんのはっきりとした声が聞こえた。紗奈は思いもしなかったその言葉に、訊かずにはいられなかった

「それはどういうことでしょうか?」
「だってこうして私に大事なことを全部話してくれたじゃないか。それってあたいを信じてくれたからじゃないのかい?
それに普段だってさ、最初の頃よりずうっと気さくに話ができる子になってきてると思うんだよねぇ。
やっぱりそれだって人のことを信じられるようになってきたんと違うかい?
昔の、紗奈ちゃんがお父さんを他人に殺されたっていう記憶を乗り越えてさ。」

そう言っておばさんは微笑んだ。

「ねえ紗奈ちゃん、あたいにもちょっと嫌な記憶を乗り越えてみようって勇気がわいてきた気がするよ。
紗奈ちゃんのおかげさ、ありがとうね。
きっとこれからはあたいら、ちっとずつかも知れないけど、もとの陽気な街に戻っていけるかもって思えてきた。」
「私もです。私も、もとの街に戻ったらいろんな人とおしゃべりしたり一緒に出かけたり、
今までとは変わっていこうと思います。」

そこまで言って、紗奈はある重大なことに気が付いた。

「でも…私、帰るバスとかわからないんだった。」

そういうとおばさんもはっとした顔になって

「困ったねえ。おばさんもこの街からバスに乗って外に行ったことはないんだよ。…あ!」
「?」
「もしかしたら、涼香くんって他の街への行き方知ってるかも!あの子ならわんぱくだし冒険好きだから。
聖母孤児院に戻って涼香くんに訊いてみよう!」

言うが早いがおばさんは駆けだした。紗奈も後をついていく。

孤児院に入るとちょうどどこかに行こうとしていた涼香と鉢合わせになった。

「あ、お姉ちゃんだ!いいところに来たね!お姉ちゃんにいいことあるよ!聞きたい?」

涼香はとてもはしゃいでいた。紗奈は何とはなしに聞き返す。

「なあに?」
「バス停を見つけたんだよ!これでお姉ちゃん帰れるね!」
「あら〜良かったじゃない紗奈ちゃん!」

おばさんが拍手して喜んでくれた。涼香も真似して手をたたいた。
喜びの渦はあっという間に大きくなって、気が付けば孤児院にいるみんながバス停のこと喜んでくれていた。
紗奈は感慨深かった。

「じゃあ、もうお別れだね。でも、気が向いたらいつだっておいでよ?」
「そうだよ!お姉ちゃんはもう僕たちのお友達なんだからね!」

涼香が言うと、周りの子どもたちも深く頷いてみせた。

「ありがとうね、涼香。それから、おばさんも、孤児院のみんなも。」
「じゃあねぇっ!」

孤児院の子どもたちが、思い思いに手を振って送り出してくれたのを背に、紗奈は涼香の案内でバス停に向かった。
バス停についてから、紗奈はさっきまでぐずついていた空が、いつの間にかすっかり晴れているのに気づいた。
バス停の近くの植物たちの葉に、雨の滴がしたたって自分を映し出している。

「久しぶりに晴れた!わーい!」

涼香は空を見上げてぴょんぴょん跳ねた。その姿を見て、紗奈の顔から自然と笑みがこぼれる。

「ねえお姉ちゃん。」
「何?涼香」
「お手伝いしてくれたからね、町の人が少しずつ外でお話ししてくれるようになりそうなんだよ!
この前もだれかが外でお話ししてるの見ちゃったんだ!」
「役に立てて良かったわ。」
「うん!ありがとっ!…あ!バスだ!」

涼香の指さす先には一台のバス。ここに来た時と同じバスだった。

「じゃあねーっ!ばいばーい!」

涼香は紗奈が乗ったバスが見えなくなるまでずっとバス停で見送ってくれていた。
手を振ったり飛び跳ねたりして、一生懸命見送ってくれている。
紗奈も手を振ってそれに応えていた。
やがて彼の姿が見えなくなったので紗奈は手を振るのをやめて席に座り直した。
バスはまた誰も乗っていなかったが、紗奈はそんなことを気にしてる場合ではなかった。一人になってあの街を離れて、急に淋しくなってきたのだ。
どうにかこうにか涙をこらえて、うつむいてみたり、瞬きしてみたりと試行錯誤してみる。
そうしているうちにバスが停車した。

「――神楽町入り口です。」

車内アナウンスが響く。

「あ、はい、おります!」

今度こそ乗り過ごしたりはしない、と紗奈は急いでバスを降りた。
降りた先は――懐かしい自分の街…。

「わー…帰って来れたんだ、私。」

紗奈は深呼吸して、雨上がりの街を見つめた。
何となくだけども、紗奈はあの不思議なバスの理由がわかった気がした。
何故あの街で自分が過ごさなきゃいけなかったのかとか、涼香やおばさんと出会ったことの理由も。

(私は…もう昔の私じゃない!)

紗奈は強い決意を胸に秘めて、もう一度雨上がりの街をまっすぐに歩き始めた。
一歩一歩確かに歩いていく。

天気予報によると、連日の梅雨はこの日で一段落したという。

《終》