風の記憶

「いってきまーす!」
「忘れものないー!?」
朋美の朝は、いつもとびきり元気な声で始まる。
飛び出した朋美に玄関から姉の薫――といってももう社会人なんだけど――が顔を出した。
「今日は数学あるんじゃなかったの?日課変更でしょ!?」
「あ、そうだ!」
「まったくあんたって子は……。」
「えへ☆」
「えへっじゃないでしょ!ほらもたもたしてると遅刻するよ!」
朋美はまた玄関へと引き返した。
薫のいらいらしたような声が上から聞こえてくる。姉のほうが自分より身長も幾分高かった。
数学の支度を取ってきて、延々と続く薫の小言をまだ新しい革靴をはきながら軽く聞き流す。
「大丈夫だいじょぶさぁ☆――んじゃ、再びいってきます!」
「………。もう。なにが大丈夫よ。あれで高校生だなんて信じられない。」
朋美の背中を見送って薫は一気に不安になった。

朋美は今年の4月に風見ヶ丘高校に入学したばかり。この辺ではそれなりに有名な進学校だ。
――1年3組。
「SHRやるよ〜!」
担任の小牧義人が勢いよくドアを開けて入ってきた。みんなすぐに着席する。
ひとしきり出席を取った後、今日は転入生の紹介をする、と言うと
ドアの方に向かって手招きをした。

入ってきたのはわりと小柄な、静かそうな女の子だった。
首のあたりできれいに切りそろえられた漆黒の髪。
子猫のように大きな黒い瞳は一点を凝視して動かない。
朋美は彼女に見覚えがあるような気がした。が、それ以上のことはなにも思い出せない。

(なんか思い出せないなぁ。どっかで会ったような会わなかったような…?)

小牧が促すと彼女は音もなく動いた。
「じゃ、自己紹介してもらおうか」
「李 風です。最近この街に引っ越してきたばかりですがよろしくお願いします」
彼女の自己紹介はそれだけだった。
「じゃ、席は相原朋美の隣な。」
「………。…ぇええっ!?」
思い切り予想外。が、そうこうしているうちに彼女はとなりに来ていた。
とりあえず挨拶をする。なんか話しづらいというのか、緊張してしまう。
「え、えっとぉ…。りりり李風さん、相原っ朋美です。よろしくっね…。」
「李風でいい。私も朋美と呼ぶから。」
李風は座りながらそれだけ告げると、あとは黙って小牧の連絡を聞いていた。
(…な、何なのこの子っ!?)

――1週間後の放課後。朋美は新体操部室へと向かうところだった。
朋美は李風といろいろ話してみたが、やはり何か覚えがあるのだった。
思い出せそうで思い出せないのが酷く気持ち悪い。
「あ、朋美。」
声がしたので振り向いてみると李風がいた。
「李風、どうした?部活見学?」
「違う。校内で朋美を探してて迷った」
「そうだったんだ。何か用だった?もしかして新体操部入る?楽しいよ〜新体操☆」
「でも…。私は体育は苦手だから」
相変わらず感情を出さない表情で朋美を見る李風。
「なに、大丈夫よ♪み〜んな初心者だし。」
「うーん…。じゃあ見るだけ…」
底抜けに明るい朋美の声に李風は少しだけ笑みを浮かべた。
「それならいまから一緒に部室行こう!決定!」
言うが早いが朋美は駆けだした。李風もあとをついてくる。

新体操部室は体育館の2階にあった。
朋美は階段を1段とばしで駆け上っていく。
が、どうやら朋美たちが一番乗りだったようだ。
「な〜んだ。飛鳥も来てないのかぁ。みんな遅いなぁ。」
「飛鳥?」
「私の親友♪この部活の部長だよ。すっごくハイテンションな明るい人。」
「ふうん。」
「じゃぁ私、練習着に着替えてくるよ。ちょっと待ってて。そのへんのいす座っていいよ!」

そういって朋美は手早く着替えと用具の準備を済ませた。ついでに準備体操。
その時ふと、珍しく李風から話しかけてきた。
「ねぇ、朋美。何か演技見せて。」
「うう〜ん…。いいよ!OK!じゃあボールのでいい?」
「うん」
李風の表情が一瞬ほころぶ。
李風、だいぶ楽しそうだな――そんなことを考えながら、朋美は位置に立った。

ふっと軽く跳躍する。
瞬間、朋美の体はそよ風のように舞った。

ひとつひとつの動きが描く柔らかい線とそのまわりを
風と戯れる蝶のように舞い、弾む小さなボール。

そんな姿を李風はじっと見ていた。

しばらくしてから、すっと音もなくつま先をそろえて朋美は中央に立った。
落ちてきたボールを真上に伸ばした右手で受け止めて、演技が終わる。
すごい、という李風の声が聞こえた。その一言で、朋美ははっと我に返った。演技を始めると集中しすぎるのか、いつもこうなる。
「とても上手になったわね。懐かしかった」
「…へ?懐かしい?もしかして、いつか私と会ったことあるの!?」
朋美は固まった。自分の演技をみてまさか懐かしいと言われるなんて。
途端、李風が何か気まずそうな表情になる。
言ってはならないことをつい言ってしまったように、黙って俯く。
「ごめん。混乱させたね。気にしないで…そろそろ帰らなきゃいけないから、また来る」
それだけ言うと、踵を返して李風は駆け去っていった。

その日、朋美は李風のことが気になって仕方がなかった。
ぼんやりとした記憶があるのに思い出せないのが悔しかった。
帰宅してからも気になって宿題に打ち込めない。

(いったい李風と私になにがあったかなぁ?)

いすの背にもたれて、のびをしてみる。
ふと1つの写真たてが見えた。
自分が母親に抱かれて、そのそばで父親と祖母が微笑んでいる。
ちょうど朋美が赤ん坊の頃のものだ。

今母親は仕事が忙しくてほとんど東京から帰ってこない。
父親もまた忙しい人で、いつでも海外を飛び回っている。今ごろ美しい世界中の自然を写真に納めていることだろう。
そして祖母は自分が幼稚園を卒業するくらいに心不全で亡くなっていた。
朋美が新体操を始めたのもこの祖母がいたからだ。街のジムにまだ幼い朋美を連れて行ってくれたのが始まりだった。
「たしか、おばあちゃんって中国育ちだから、もう一つ中国の名前があるはずなんだよね。なんだったかなあ?」
ちょうどその時、居間から薫の呼ぶ声がした。
「朋〜、夕飯だよ。おいで〜!」
「はーい。」
急いでスリッパを突っかけて1階の居間へ向かう。朋美の勉強部屋は2階だったので、階段を下りて行く。

テーブルにはほかほかの米飯とみそ汁、烏龍茶が並んでいた。いつもの朋美家の夕食である。
朋美は祖母の中国名について薫に尋ねてみることにした。

返ってきた答えに朋美は驚かずにいられなかった。薫の答えは相当衝撃的なものだった。
「おばあちゃんの中国の名前?李風だよ。今のあんたと同じくらいの頃の写真がそこにあるわ。かわいいとおもわない?」
そういって薫が指した写真たてに入っていたのは、若い頃の祖母のチャイナ服を着ているものだった。
わりと小柄で、静かそうな女の子。首のあたりできれいに切りそろえられた漆黒の髪。子猫のように大きな黒い瞳。
転校してきた李風とどこからどこまでも同じだった。

(えぇぇ…!?い、いったいどういうことよ!?)

李風は次の日欠席した。次の日もまたその次も…。
「朋美、お前隣の席なんだし、李風の家に行ってあげたらどうだい?」
普段生徒の欠席などそんなに気にしない担任の小牧も、流石に転校したての李風のことは心配なようだった。
ところが、手渡された地図を手に彼女の家をめざしてもなかなかたどり着かない。
どんどん深い森の奥に入っていくだけに思えた。
「もしかして、私森の中で迷子になった?」
急に気力が抜けて、近くの木にもたれる。額にじんわりとかいた汗を右手で拭う。

そして、いつの間にか、朋美は眠ってしまった。

優しいそよ風が、側を吹き抜けていくのがわかった。
あれからどのくらい眠っていたのだろう。空がうっすらと緋色に染まり始めていた。
「…もう一回行ってみよう。」
気を取り直して立ち上がって、またしばらく歩くと一軒の平屋の屋根が見えた。
烏色の小さな瓦屋根の家。地図通りなら、それは李風の家だ。
どうやら無事にたどり着いたらしい。
ドアベルがなかったので、玄関から声をかける。
「こんにちわ〜。李風いる?」
「あ、朋美…。」
声がしたのは、庭の方からだった。出てきた李風は顔色が悪い様子も体調不良という様子もなかった。
「ずっと欠席してたから、どうしたのかと心配したよ。でもなんか元気そうだね。」
「ごめん。」
彼女が学校を休んだのは、体調が悪いのではなさそうだったが、それ以上何も聞かれたくないようだった。
それでも、朋美には、彼女にどうしても聞かなくてはならないことがあった。

「ねえ、ひとつ聞きたいことがあるんだけどさ…いいかな?」
「いいよ、何?」
「あのさ、……。」
いざ質問するとなって、朋美はためらった。
本当に李風は自分の祖母なのか?もし違ったらずいぶん大変なことになるという気がして、聞くのがこわくなった。
「……どうか、した?」
少し心配そうに、李風が首をかしげる。
――聞くしかないよな…。不安をふりきって、切り出す。
「…あのね、私のおばあちゃんなんだけどね……もうだいぶ前に亡くなっちゃってるんだけど、中国育ちなんだ。それで、中国に住んでいたときの名前がね…。」
「……いい、その先は言わないで。」
李風が唐突に彼女の言葉をさえぎった。
「わかってたの。こんなの本当はいけないってこと。でもどうしても我慢できなくって…ごめん……。」
次第に涙声になっていく彼女をみて、朋美はそっとしておけばよかったと、深く後悔していた。

やや時間が過ぎて、李風は、流れる涙を拭いながらゆっくりと話し始めた。
「あなたが察したとおり、私はあなたの祖母なの。
私はあなたがまだ幼稚園という幼いうちに死んでしまった。
本当はもっとずっとあなたの成長を側で見守ってあげたかった。
日に日に新体操が上達していて、
いろんなことを楽しそうに私に報告してくれていた朋美のこと思い出して、いつも泣いてたの。
どうしても朋美の大きくなった姿だけでも見たい、
うまくなった新体操の演技をこの目で見てあげたいって思って…。
今まではそう思うだけだった。でもある日ね、気づいたらここにいたのよ。
すぐに分かったわ、自分が生き返って、今の朋美と同じくらいの年の姿でいると言うことに。
これなら、朋美のいる学校に転校するって建前で朋美の側で過ごすことができる。
そう気づいたときとても嬉しかった。やっと願いが叶うんだって。
でも、本当は、そんな事してはいけないのよね。私は一度死んだ人間なんだもの。
許されないと分かっていたのに…。我慢できなかったのよ。」

朋美はその話を聞いていて、胸がきりきりと締め付けられるような気持ちになった。
ただ黙って俯き、震える拳を握り締める。
「でもね、あなたと一緒に過ごした生活は楽しかった。すごくみんなにも部員たちにも優しくて、明るいいい子になったんだなぁって。
新体操を見せてくれたとき――ああ、上手くなった、って思った。すごく幸せだったわ。」
「おばあちゃん…。」
朋美の目からもひとすじの涙がこぼれた。
「ごめんなさい。そんな風に私をこと思っていてくれてたなんてぜんぜん予想もしなかった。ごめんなさい…。」
「私こそ、帰って朋美に悲しい思いさせて、すまなかったね。」
ひんやりしたそよ風が吹き抜けた。と、李風の体が少しずつ夕焼けの空に消えていく。
「おばあちゃん!?」
朋美には、何が起ころうとしているのかが分かった。これで、今度こそもう2度と会えなくなってしまう。
「もうここにはいられないわ。真実を知られた以上……ごめんなさい、朋美。」
「おばあちゃん!」
朋美は、どうしても言いたいことがあった。

「会いに来てくれてありがとう、おばあちゃん!」

「朋美…。」

彼女の目から一滴の涙がこぼれ落ちた。
朋美はたまらなくなって李風の体に抱きついた。どこにも行かないで欲しかった。
李風の頬を伝わって流れた涙が、朋美の肩に落ちるのと同時に、彼女は夕闇の風の中に消えていった。
後には背の高い草がゆれていた。

翌日―。

「李風が、昨日で別の高校に転出となった。どうやら転勤族かな?」

朝のSHRで、担任はそう告げた。
朋美は、昨日のことはだれにも言わないことにした。ただ自分の心の中に、しまい込んでおこうと、あのときそう決めたのだ。
放課後、朋美はまたあの李風の家があった近くまで行ってみることにした。
小さな1軒屋こそそのままあったが、もう李風はいない。
でも不思議と、寂しくはならなかった。むしろ、優しく誰かの腕に抱かれているような、安らいだ気持ちがした。

昨日と同じ風が吹いている。美しい風の記憶―。そばの木々が、ざわめいた。

=終=