深い深い海の底に拡がるエメラルドグリーンの森。辺りにはほのかに灯りが揺れていた。
それからなぜだろう、不思議と息苦しくない。
森の中には神殿のような建物が1つ。どの木よりも高いその建物に近づくと、2人の子どもがいた。
一人はドーム屋根の建物の中で揺り椅子に座っている。10歳前後の少女だ。
もう一人は真っ白な服を着ている8歳くらいの少年。
「ねぇ、きみは何ていう名前?ここって、どこなの?」
好奇心いっぱいの瞳で少女の顔を見つめ、少年が話し掛けた。
「ここは、海底森林。私はここの番人をしている者。」
静かに答える少女の声は妖精を思わせる、不思議な響きを持っていた。
「ふぅん、『かいていしんりん』っていうところなんだね。すっごくきれいだから大好きになっちゃった。
ところで、名前も教えてよ。ぼくは『まさき』だよ。」
「そう…まさき君ね。」
「うんっ!君は?」
森のエメラルドグリーンの上で、明かりがゆらりゆらり、揺れている。
「名前はないわ。ここには私の他に誰も住んでいないから、呼ばれることもないもの。」
「ふぅん?」
少年は納得できないという顔でうなずいた。
「ところで、まさき君はどこから来たの?」
しばらくして、少女が唐突に話し掛けてきた。ぼーっとしていた少年は、少し驚いたようだったが、
「さっきまでぼくは病院にお泊まりしてたんだ。
でもね、寝てたら急に体がふわって浮いて、びっくりして起きたらここの近くに立ってたんだんだよ。
変だよね?ぼくパジャマだったのにこんな服だし、悪い病気になってたのも治っちゃったみたい。」
「そう…。じゃあ、まさき君がここに来れたのは、やっぱり…死んだからなのね。」
「しんだって?ぼくはどうなったの?ぼくがここに来たことと何か関係があるの?」
「ここは亡くなった人が一番最初に訪れる場所なの。
生きている間にはどれほど海の中を探してもここはたどり着けない。
時々魔術師たちも来るんだけど、彼らは特殊だから来られるだけ。」
「じゃあ、ぼくはすごくめずらしくって変わったところに来たんだね!
お父さんとお母さんに今度おしえてあげたいな。ね、いいでしょ!?」
少女は悲しげに首を横に振った。
「まさき君のお父様とお母様は生きてらっしゃるのでしょう?
だから教えてあげてもここには来られないわ。それに…。」
少女がふいに言葉を切った。無邪気な少年は、少女に不思議そうに尋ねる。
「…それに?」
「……それにね、まさき君はもうお父様にもお母様にも会うことができないのよ。」
言い終えた後、少女は小さくため息を漏らした。
大人ならば、死ぬということがわかっているから、説明するのも審判所へ誘導するのもすぐ終わった。
自分も慣れているからか、なんの感情もわかなかった。
けれど…
久しぶりに今回はつらいと思った。
「そっかぁ…。もう、会えないんだ…?」
少年は今にも泣き出しそうな顔でつぶやいた。しかし、すぐ顔を上げると、笑って
「でもぼく泣かないんだ。お父さんと約束してあるもん!強い子になるって!」
少女はその言葉に安心したようだった。ふっと小さく微笑む。
どこからともなく、こぽこぽと泡が浮いて来る。それは海底森林をより一層幻想的に見せた。
「ねぇ、そういえば、ぼくはこれからずっとここでくらすの?」
「いいえ、審判所というところに行くの。そこで……そうね、今までのことを振り返って、
それから、これからはどこで暮らしていくのか決めるの。」
「へー!おもしろそう!なんだか楽しみだなぁ!早くつれてってよ!」
少年は飛び回ってはしゃいでいる。きっと楽しいピクニックに行くとでも思っているのだろう。
「でもそこに行く前に、1つだけ私がまさき君のお願い事を叶えてあげることができるわ。
今までここにやってきた人も、私にいろいろなお願い事をしていったのよ。」
「わーい!じゃあなににしよっかな?いっぱいあってまよっちゃうなー!」
少年ははしゃぎまわりながらあれこれと迷っていた。そんな姿を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになる。
一方、彼女も何か考えごとをしているようだ。
「お父さんとお母さんには会いたいけど、いつかまた会える気がするし、
あのおもちゃは好きだったけどあきちゃったし…、ほんとに何にしよう?」
少年の願い事はまだまだ決まりそうにない。森の明かりが少年の動きに合せてほんのりと揺れ、
木々の枝もそよそよと動いている。
少女は、ただじっと少年の方を見つめていた。何か、問いの答えを探しているようだった。
「きーめたっ!これに決めたー!」
「どんなことにしたの?」
長いこと考え込んでいた少年は元気に跳ねながら神殿の階段を駆け上って少女に走り寄った。
少女は微笑を向けながら尋ねる。
「あのね、きみにプレゼント!」
「…え………?」
息を弾ませながら、少年ははりきって答えた。予想外だった。
もっと、例えばもう一度、一日だけ生き返りたいとか、おいしいものを食べたいとか、遊びに行きたいとか…
そんな他愛もないことだと思っていたのだ。
少女は、だが顔には出さずに答えた。
「そう。じゃあ、まさき君は、私にどんなプレゼントをくれるの?」
「それはねぇ…。」
そういうと、少年は少し顔を赤らめて恥ずかしそうにいった。
「きみに名前を付けてあげたいんだ。」
「名前…?」
「うん!『聖』っていう名前!キレイでしょ!?」
にっこりと、満足そうに少年は笑う。そして、胸を張って言葉を続けた。
「お母さんがね、とってもきれいな言葉なのよって言ってたし、きみにいちばん似合うと思うんだ。
それからね、ぼくと聖はずっとともだちでね、
ぼくが『しんぱんじょ』って言うところから帰ってきたら、一緒に遊ぶんだ!」
「でも、私とまさき君がもう1回会えるかなんて、わからないわよ…?」
「きっとあえるよ!」
その時、またこぽこぽと泡が浮いて、2人の間を流れていった。
「………。」
少女は微かに驚きを顔に表した。探していた、なにかとても大切なものを見つけたような、そんな表情。
「ね、きっとあえるんだからその時は一緒にかくれんぼとか、やろうよ!」
「…そう、ね。まさきくん、プレゼント、ありがとう。」
「どういたしまして!」
少年は満足げに答えた。
森のエメラルドグリーンが、いっせいにそよぐ。微かな木漏れ日も、あわせてゆらめいた。
それはまるで、森の精霊が舞い踊るかのよう。
「じゃあ、さっそく『しんぱんじょ』へつれてってよ、聖ー!」
「うん、わかったわ。」
少女は、神殿を降りて、少年と一緒に森の奥へと歩いていった。
少年の元気な声も次第に小さくなり、やがて森の中に消えていった。
静まりかえった海底森林は、ほのかに明かりが揺れている。
少年を送っていった帰り道、少女の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。
少女が神殿に戻ってしばらくすると、また一人、誰かが訪ねてきた。
揺れる木々の枝の向こう、わずかに人影が見える。こちらに近づいてくるのは一人の老婆だった。
「はてぇ、ここはどこじゃねぇ?見たん事ねぇ場所だぁ。いやぁハイカラだ。
…おやぁ?お前さんは誰じゃな?」
老婆は神殿の上の少女に話し掛けた。
少女は揺り椅子から立ち上がると、
「ここは海底森林。私はここの番人をしている者。」
「ほぉ、海の底の森かい?お前さんはなんていう名前なんじゃ?」
「…私は」
少女は、たったいま贈られた名前を口にした。
微かだった明かりが少し明るさを増した。
美しいエメラルドグリーンの葉は、光を映してひときわ輝き、その間を泡が一つ二つ流れてゆく。
海底森林の番人は、今日もまた、人を迎えている。
人を迎えながら、迎えを待っていた。
聖。
その名を贈った、ひとりの少年の迎えを、今日もまた待っていた。
≪終≫